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ゼミ読書課題 宮澤知樹

 

201104

 


 

『獄中からの手紙』を読んで

 

 この本には、ヤラヴァーダー中央刑務所に収監されたガンディーが獄中生活において弟子たちに一週間おきに宛てた手紙で自らの思想を展開したものが載っている。まずガンディーによれば、「真理=神」であり、思念にも、言葉にも、行為にも、すべてに真理がやどっていなければならず、真理を完全に体得した人には何一つ他に学ぶべきことはない。真理を得るために一途な信仰をいだいていても、ある人にとって真実と思われることが他の人にとっては虚偽に見えることがあるという。しかしガンディーは、真摯な努力を重ねていけば、一見異なる真実に見えるものでも根本が同じであることがわかり、各人がそれぞれ自分の光に従って真理を求めるのはすこしも間違ったことではなくそれが各人の務めである、と言っている。そして、この真理と密接に関係しているのが、「アヒンサー=愛」である。禍をもたらす者を罰するのではなく赦し、相手に同胞・血縁関係を気付かせることで悪の道から救う。また、生きとし生けるものすべてに危害を加えないことはアヒンサーの最低限であり、いっさいの邪念や、過度の焦燥、虚言や、憎悪、人への遺恨などによってアヒンサーは損なわれる、そして、いっさいの執着心から解き放たれて自由になることが神を真理として悟ることだという。アヒンサーは手段であり、真理が目的なのだ。ここまで読んだ時点でも、ガンディーが常日頃考えていることは、自分とはどこか別次元にあるような深いものであるということは思わずにはいられない。先に述べた真理とアヒンサーのことを念頭に置き、以降の彼の思想を読んでいくと、もちろん賛同できるものもあるが、中には矛盾や疑問を感じてしまったものもあったので振り返ってみることにする。

 まず印象に残ったのが、不盗と無所有である。不盗の戒律では、たとえ所有者の承諾があったとしても、本当にそれが必要でなければ、他人から何かを受け取ることは盗みだ、ということになっている。不盗の原理を守る人は、将来手に入る物について思いわずらうようなことはない。断食中に他人の食事を見て飲食の喜びを思い描いたり、断食後の食事を想像することも罪となる。この不盗に関連するのが無所有であり、必要でない物を所有しているならそれは盗品であり、愛の法の信奉者は将来の貯蓄も許されない。この二つの戒律にのっとって、各人が必要最低限を所有したり、冨者が自身の財産をほどほどに制限すれば、困窮する者がいなくなり、貧富の格差が是正されるという理屈には賛成できる。しかしながら、どのくらいが必要最低限の目安なのだろうか。ガンディーの主張にはそれが含まれていなかったので、それがなければ素晴らしい思想も机上の空論に終わってしまうのではないかと疑問に感じた。

 次に寛容と宗教の平等について注目したい。アヒンサーは、他人の宗教にたいして、自分の進信仰にいだいているのと同じ尊敬を払うべきことを教え、自分の宗教の不完全さを認めることになる。さまざまな宗教はもともとはたった一つであった宗教から枝分かれしていったが、その過程で不完全な人間が言語を駆使して語られていった結果、不完全となっていったのだ。完全な宗教とはいっさいの言語を超えている。だからこそ寛容が必要なのである。他宗教にたいして寛容のこころを養うことは、自分の宗教をいっそう正しく理解することにつながる、とあったが、まさにそのとおりだと私も思う。世界史を学んできたからわかるが、人類の歴史でも宗教の違いが原因となった争いはいくつもあったし、現在でも中東やアフリカでも内紛が続いている国もある。私は特定の宗教を熱く信仰しているわけではないが、「宗教が原因で尊い命が失われてはならないし、人を幸せにしない宗教は宗教であるべきではない」と、今争っている人々に言いたい。他者の違いや欠点に寛容となり、理解し、自身のそれらにも目をそむけないことは宗教に限らずあらゆることにおいて大切なことだろう。

 最後にブラフマチャリア=純潔・禁欲・浄行の戒律について論じたい。この戒律においてガンディーは、男女が愛し合い、お互いがお互いのために全てを捧げると、彼らの周りに障壁を築いてしまい博愛(万人への愛)から遠ざかり、家族が多人数であればあるほど博愛から遠ざかる、という主張をしているが、私はその意見には同意しかねる。なぜなら、大切な家族すら愛せない者が万人への愛を抱くことはできなのではないかと思うからだ。そして、むしろ2人の男女が結ばれることでお互いの親族同士がつながり、愛することができる人数が増えるのではないだろうか。ところで余談になるが、ブラフマチャリアの一環に嗜欲(味覚)の抑制があり、ガンディーは「風味を増したり加減するために、あるいは味気なさを改良するために、食物に塩を加えるといのも戒律違反になります。ただし、定量の塩を食物といっしょに摂ることが、健康上必要とされるばあいは、塩を加えることは違反になりません。言うまでもありませんが、実際に必要でないのに、入り用だと自らを偽り、食物に塩またはその他(香辛料)を加えるのは、完全な偽善行為ということになります。」、と言っているが、それならば彼は様々なスパイスが入っている料理であるカレーを食べないのだろうか。食べるとしてもまったく風味も味気もないカレーを食べるのだろうか。読んでいてものすごく気になった。

 最後にこの本に載っていた戒律は社会や経済が発展し、各地域の習慣が確立されている現代では完璧に実践することは難しいように思われるが、見習うべき考え方も中にはあるということも忘れてはならないと思った。

 


 

『罪と罰』を読んで

 

この作品は、主人公で下宿暮らしをしている大学生ラスコーリニコフが高利貸しを営むアリョーナ・イワーノヴナという老女を殺害するにいたるまでの経緯と犯行後の彼と彼の周囲を取り巻く状況を描いたものである。老女の家からの帰り道に寄った安食堂で彼の隣のテーブルで学生が話していたことが彼の犯行を決意させたのだと思われる。「ぼくは、あの、鬼ばあさんなら、たとえ殺して金をうばったとしてもだ、いいか、良心の呵責なんていっさい感じないね」、「こっちには、バカで、無意味でろくでもなくて、病気がちの意地悪ばあさんがいる。誰にも必要ない、いやそれどころか、みんなに害をおよぼし、自分でもなんのために生きているのかわからず、明日にもくたばってしまいそうなばあさんだ」、「他方に、若くて新鮮な力がある。援助の手もないまま、むなしく消えていく力だ。これが何千といる、いたるところにいるんだ!修道院行きになるあのばあさんの金があれば、百、いや、千の立派な事業や計画に着手したり、やり直したりできる。もしかしたら、何百、何千という人間を正しい道にみちびけるし、何十という家族を、貧困や、崩壊や、破滅や、堕落から、そう性病院からも救いだせるんだ。ばあさんの金があれば、それがぜんぶできる。じゃあ、ばあさんを殺して金をうばったらどうか、その金でもって、ゆくゆくは人類全体に奉仕し、共同事業に一身を捧げるためだ。どう思う、ひとつのちっぽけな犯罪は、何千という立派な行いでもって償えないもんかね。たったひとつの命とひきかえに、何千という命を腐敗や崩壊から救えるんだぜ。ひとつの死と、百の命をとりかえっこするんだ。」という学生の話を聞いて、老女のアパートから出てきたばかりであり、同じような考えが浮かんでいたラスコーリニコフにはこの偶然の一致が犯行のきっかけになったのである。

正直、この犯行の前後の展開までは読んでいてこの先どのような話に発展するのか皆無であった。酒場で、元役人のマルメラードが、自身の堕落が家族を苦しめている発言や病的ともいえる愛情を含んだ発言があまりにも長々と続いていたので、こんな人が現実にいたらと思うと気分が悪くなりそうだったし、農奴解放直後のペテルブルクはこのような人々で溢れかえっていたのか、街の雰囲気はそのせいで荒んでいるのかという印象を持ってしまった。また、主人公のラスコーリニコフについてだが、彼は妹の結婚相手に攻撃的な態度をとったり、殺人を犯したり、友人のラズミーヒンにでさえ反抗的な接し方をして、非社交的でとげとげしいイメージ持つ半面、馬車にひかれて血だらけになり、瀕死の状態であったマルメラードを介抱し、彼の家まで誘導し、息を引き取った彼の残された家族を支援したいと申し出たりする面も持っていることから、どのような言動においてもラスコーリニコフは自身の信じる良心に従って生きているのではないかという印象を受けた。しかしながら、大勢の命のために1人を犠牲にするという考えは間違っている。たとえ一人であろうと他人の命を奪って良い権利など誰にもない。大勢の命のことを考えるのならラスコーリニコフは頭が悪いわけではないと思うのでもっと別の方法を考えるべきだった。最後に、殺人を犯した者はその者が属している共同体の法的な罰則以外にも恐怖や不安といった罰も与えられるのだと思った。

 


 

『風が強く吹いている』を読んで

 

 この作品は、箱根駅伝を走りたいと願ってきた清瀬灰二が、走るために生まれてきたような天才ランナー・蔵原走と出会い、大学の下宿先の竹青荘で共同生活をしている走りの素人がほとんであった住人たちと共にたった10人で箱根駅伝の頂点を目指していくという内容のものである。竹青荘の陸上未経験者の住人たちは、最初は箱根駅伝に巻き込まれることに抵抗していたが、灰二に弱みをにぎられたり、説得されるなどして全員が参加することになった。これまでの人生を走ることに費やしてきた走は、「素人たちが今から取り組んだところで箱根出られるわけがない。どうせ途中で飽きて計画は無くなるだろう。」と最初は思っていたが、住人の個性や強みを活かした灰二のコーチングによって素人たちは着実に成長していった。だが、記録の伸びは個人差があったり伸び悩みもあり、箱根を目指すことに対してしだいに真剣なり始めていた走は、自分から見た仲間の練習の甘さや自身の伸び悩みに焦りやいら立ちを感じて、何度か仲間とぶつかったりしていく。最終的に、走たちは箱根駅伝に出場し、総合優勝はできなかったものの10位に入りシード権を獲得した。

 作品内容にケチをつける気は毛頭ないが、箱根駅伝を目指すに際してなぜ清瀬灰二は竹青荘の素人たちをメンバーにしたのだろうか。物語を読み進めていくうちに、竹青荘の住人たちのポテンシャルや性格に活路を見出しているといった主旨の答えを清瀬は示していたが、現実的に考えて、走のような元陸上選手をあと8人集めた方が箱根に出場してもっと良い結果を残せる確率は高かったのではないかと思ってしまった。もっとも、それでは作品の面白さが半減してしまうのではないかとも読書中に自問自答してしまったのだが。だが、この作品には弱小チームを題材にした他の作品とは違った現実的な配慮もあるとも感じた。なぜなら、「10人の力を合わせてスポーツで頂点をとる」と序盤で言っておきながら、最終的な結果は総合優勝ではなくシード権獲得にとどまっているからだ。私はこの手の作品にいくつか出会ってきたが、このパターンは初めてである。「弱小チームが最終的に箱根で優勝するのだろう」と序盤で予想していたので終盤で意表を突かれたが、現実味がるなとも思った。また、自身が不祥事を起こした高校の部活の元チームメイトとの軋轢は解消されなかったのが残念に思えてならなかったが、竹青荘の住人や箱根の王者・藤原とのやりとりを通して走は、「速さ」を身につけるだけでなく、「強さ」とは何なのかの答えも見出して精神的にも成長していっていると感じた。最後に、竹青荘の一員にはユキという人物がいて、彼の箱根駅伝での走りのシーンで、「声援を送ってくれる家族の姿を見て、ユキだけが感じていた些細なわだかまりが溶けていく。それに合わせるように、雪もいま、完全に雨になった。」というユキと雪を意識させる表現があったが、作者は初めからこの場面を見越して登場人物の設定を行ったのかどうか気になるところだ。